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ますます個性豊かになるアジサイ今年の気分にしっくりくるのは?

色とりどり・形もさまざま梅雨のシンボル"アジサイ"

6月はアジサイの花が見頃。かつては色がコロコロ変わる様を 「移り気」「縁起が悪い」と考え、あまり品種改良が進まなかったそうですが、今は実に様々な品種が開発されています。

気軽に楽しむなら鉢植えもいいですし、花木の本領を発揮するなら地植えもいいでしょう。名所へ出かけて、周りの風景と共に堪能するのもよし。今回はアジサイの楽しみ方をご紹介します。

アジサイのいろいろな形

アジサイの花は、雄しべと雌しべを持つ両性花と、花弁の様な蒋を持つ装飾花で構成されています。両性花がいわば本体ですがあまり目立たず、外見上"花" として認識されるのはだいたい装飾花の方です。 装飾花の形や大きさ・色が変わったり、八重になったり、あるいは両性花がすべて装飾花に変化することで、一見すると同じアジサイとは思えないほどのバリエーションが生まれています。

アジサイの色を楽しむコツ

アジサイの花色が、土の酸度で変わるのは有名ですね。酸性の上なら青くなり、中性~弱アルカリ性の土ならピンク色になります。 中性なら中間の紫色になりそうなものですが、アジサイには青花系品種とピンク花系品種があり、青花系品種を中性~弱アルカリ性の土に植えると赤みを帯びた紫色に、ピンク花系品種を酸性の土に植えると青みを帯びた紫色になるのだとか。

紫色が好きな方もいるでしょうが、アジサイの生産農家としては品種固有の色をよりきれいに発色させるため、土や肥料を調整しているのだそうです。鉢の植え替えや庭に移植する時は注意したいですね。
ただ、中には土壌に関係なく両方の色にきれいに発色する品種、あるいはそもそも土の酸度にあまり影響されない品種もあるそうです。

また、白いアジサイは元々色素のない品種で、これも土の酸度によるものではありません。
アジサイの色が変わる要因は、他に"時間"もあります。最近"秋色アジサイ"などと言って、秋まで長く開花している内に、花色がくすんだ緑色や赤色へ変わっていく品種が人気です。
最後は乾燥させてリースを作ることも出来るとか。梅雨だけではもったいない!という人は、是非挑戦してみてください。

爽やかな香りで心身を清めてくれる"菖蒲"。子供も大人もお風呂でリフレッシュ。

子どもの日といえば"菖蒲"。その由来とは?

5月5日は「こどもの日」。元々は「端午の節句」として祝われていた日です。別名として「菖蒲の節句」という呼称があるように、端午の節句には、菖蒲を使った風習がいくつも残されています。代表的なものが"菖蒲湯"ですが、ほかにも様々なものがあります。なぜ菖蒲なのでしょう。また、菖蒲にはどんな効能があるのでしょうか? こどもの日に縁の深い"菖蒲"にまつわるエピソードをご紹介します。

元々は季節の厄払い行事。菖蒲の香りで邪気を浄化

現在では、男の子の成長を祝う行事としての印象が強い端午の節句ですが、元々は古代中国の厄払い行事でした。
旧暦の5月5日は梅雨にあたり、体調を崩しやすくなることから、病魔や災厄を祓うために行われたのです。この時季に盛りを迎える菖蒲や蓬(よもぎ)は良い香りがしますが、古来、芳香には悪い気を退ける力があると信じられていました。そこで、蓬で作った人形を飾ったり、菖蒲を門に掛けたりして、邪気を祓ったそうです。それが奈良時代に日本へも伝わり、平安時代には宮中行事として定着しました。
宮廷ではこの日、軒に菖蒲や蓬を挿したり、冠に菖蒲を飾ったり、また菖蒲や蓬を丸く編み五色の糸を結んだ薬玉(くすだま)を柱に吊るしたりしました。薬玉を貴族同士で贈りあう習慣もあり、『源氏物語』や『枕草子』にその描写が見られます。

武士の時代にも縁起物として浸透していった菖蒲

鎌倉時代になると武士が力を持ち、宮廷行事としての端午の節句は衰えます。一方で、「菖蒲」は「尚武(=武を尊ぶ)」や「勝負」と同じ読み方であること、菖蒲の葉の形が剣に似ていることなどから、武士もこの日を重視するようになりました。またこの頃から、菖蒲湯・菖蒲酒・菖蒲枕など、菖蒲に関する風習が、民間にも伝わっていったそうです。菖蒲切りというチャンバラごっこや、菖蒲打ちといって菖蒲の束で地面を叩き、音の大きさを競う遊びも登場しました。

漢方薬・民間薬としても大活躍の菖蒲

菖蒲の芳香には、自律神経に作用して精神の安定をもたらすテルペン類の香り成分のほか、アザロンやオイゲノールといった、血行促進や疲労回復に効果がある香り成分が含まれ、菖蒲湯は神経痛やリウマチに効果があるといわれています。菖蒲は漢方薬・民間薬としても用いられており、意識障害や癲癇(てんかん)、健忘症のほか、関節痛、打撲傷、腫れ物、湿疹、腹痛、胃炎、消化不良、下痢、気管支炎、せきなどに効果があるとされています。
なお、「菖蒲」というと、紫色の美しい花を想像するかもしれませんが、それは「花菖蒲」と言って、魔除けや薬として用いられる菖蒲とは全くの別物。花菖蒲には、菖蒲のような香りや効能はありません。菖蒲に葉が似ていることから、この名がついたそうです。菖蒲湯用には、スーパーや花屋さんなどで、菖蒲湯セットを買えば間違いないでしょう。

桜満開・春爛漫。お釈迦様の誕生日は色とりどりの花に囲まれて

一見、何の日か分かりづらい「花まつり」。実は...?

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キリスト教の開祖であるイエス・キリストの誕生日は、言わずと知れたクリスマス。日本にキリスト教徒は少ないはずなのに、知名度は抜群ですね。では、日本に馴染みの深い仏教の開祖・お釈迦様の誕生日はいつでしょう? 諸説ありますが、日本では新暦4月8日に、お祝いの行事を行うことが一般的。行事の名称は「灌仏会(かんぶつえ)」「降誕会(ごうたんえ)」「仏生会(ぶっしょうえ)」など様々ありますが、最も親しまれている呼び名が「花まつり」です。

お釈迦様の誕生日は花がいっぱい?

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お釈迦様の誕生日が「花まつり」と呼ばれる理由はいくつかあるようです。4月8日頃は桜が満開になる地域が多い事から、浄土真宗の僧侶がその名を提唱したという説。元々この時季には春の到来を祝い、花で山の神や祖先を祀る同名の民間習俗があり、それと習合したという説。お釈迦様の誕生の際にはたくさんの花が咲いていたからという説。あるいは、その様子を模した行事が行われるからという説、等々です。
お釈迦様は、現在のインドとネパールの国境に近い、ルンビニーの花園で生まれました。生まれてすぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言したと言います。また、お釈迦様の誕生を祝った竜王が、甘露の雨を降らせたとも伝えられています。花まつりでは、そんな誕生の様子になぞらえた行事が多々あります。

伝説を再現する「花まつり」の行事

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仏像を安置した建物を堂といいますが、花まつりの日には、花で飾った「花御堂(はなみどう)」が設けられます。これは、誕生の地・ルンビニーの花園に見立てたものです。花御堂に安置されるのは、お馴染みの座禅を組む仏像ではなく、誕生時のように右手で天を、左手で地を指差す「誕生仏(たんじょうぶつ)」。竜王がお釈迦様に甘露を注いで祝ったように、誕生仏に甘茶をかけることでお祝いします。また、寺院で甘茶が振る舞われることが多く、これを飲めば無病息災で過ごせると言われています。
日本では地味な印象の花まつりですが、マレーシアではたくさんの人が参加する派手なパレードもあるのだとか。派手なことが良いとは限りませんが、もう少しお釈迦様の誕生日も知られるとよいですね。満開の桜を背景に、花で飾られるお堂はなかなか華やかで美しいのではないでしょうか。最初はそんな理由から、「花まつり」に興味を持ってみるのも悪くはなさそうです。

伝統的(トラッド)でありながら最先端?学生服は時代を反映する鏡

学生時代を象徴する"制服"

4月は入学シーズン。巷には新しい制服に身を包んだ新中学一年生や新高校一年生たちの姿が見られ、その初々しさに思わず微笑ましい気持ちになってしまいますね。ところで、かつては詰襟にセーラー服が主流だった制服も、今ではブレザースタイルが多くなりました。そんな学生服の変遷をたどってみます。

近代教育とともに歩んだ学生服の歴史

制服の歴史は学制とともに始まります。1872(明治5)年に学制が公布され、近代化の象徴として洋装が奨励されました。1886(明治19)年、帝国大学では機能性と見栄えに優れる陸軍制服を手本とした制服が採用されました。男子学生服の王道・金ボタン式詰襟(学ラン)です。
一方、明治の女学生といえば女袴を穿き、髪を結い上げ革靴を履いた、いわゆるハイカラさんスタイル。一気に洋装へとは進まず、まずは「女性も袴を穿く」というところから始まりました。
では、女子学生服の王道・セーラー服の始まりは何かというと、意外なことに"体操服"。1905(明治38)年に提案された女子用の体操服が、セーラー衿のついた上着と、膝丈のブルマーでした。しかし、女子の体操に理解が得られず、普及はしませんでした。
大正に入り、洋服文化が庶民へ広がりました。また、関東大震災で洋服の機能性が評価され、女学校ではセーラー服に代表される洋装制服が広まりました。

戦後が生んだブレザースタイル

明治・大正を通じて定着した詰襟とセーラー服は、長らく王道としてあり続けました。そんな状況が変わったのが昭和50年代後半、いわゆる団塊ジュニア世代が高校に入り始めた頃です。
戦後生まれの団塊世代は、ニューファミリーと呼ばれる新しい価値観を持った家族層を生み出し、その子供である団塊ジュニアも、新感覚世代として社会に影響を与えました。
そんな団塊ジュニアに人気となったのが、ブレザータイプの制服。背景には、親の団塊世代がトラッドファッションに親しみがあったこと、時代的にDCブランドブームだったことも大きいと考えられます。「制服」が高校志望の理由として挙げられるようになり、著名デザイナーによる制服が続々と登場。ブレザータイプの制服が増えていったのです。
制服に求められるものの基本は「きっちり観」。ある意味"伝統性""保守性"です。しかし、こうしてみると時代を映し、時に最先端だったことがうかがえて面白いですね。

紅白色とりどりの梅の花、春の訪れを香りに乗せて

かつては桜より梅の方が人気だった!?

2月は別名「梅見月」。もっともこれは旧暦2月の異称で、新暦では2月下旬から4月上旬にあたるのですが、新暦2月も多くの地域で梅が見ごろを迎えることに変わりはありません。
今では花見といえば「桜」。春を象徴する花であり、日本を象徴する花であるとも認識されています。しかし、かつては梅の方が桜より愛でられた時代がありました。そんな梅と日本人の関わりを紹介します。

当時の進んだ文化を象徴した「梅」

梅はもともと中国が原産で、遣唐使によって日本へもたらされたと考えられています。遣唐使が派遣されたのは、おおむね奈良時代から平安時代初期にかけて。この時代は、中国から取り入れた文物に大きな影響を受けた時期です。梅も同様に、中国の進んだ文化を象徴するものとして、当時の貴族層に熱心に受け入れられました。
奈良時代の歌が多く収録されている『万葉集』には、植物を題材にした歌が多くあります。その中でも梅の花は、荻の花に次いで2番目に多く詠まれています。それに対し、桜の花を詠んだ歌の数は、梅の花の半分以下。当時の梅の花に対する情熱がうかがえます。なお、梅の花が1番目でないのは、貴重な舶来品で憧れの対象ではあったものの、それゆえ馴染みがなかったからのようです。

花見の原型は"観梅"

日本に自生している桜に対し、異国から輸入された梅は、人間の手で栽培されるものでした。貴族が庭を作る際は、梅を植えるのが定番となりました。また、梅の花を見ながら歌を詠んだり、宴を開いたりしました。これが、いわゆる"花見"の原型のひとつといわれています。
ただし、桜が特別な関心を持たれなかったわけではありません。桜は神の依代と考えられ、鑑賞するというよりも信仰するものだったようです。また、桜の開花状況によって田植えの時期を決めるなど、農民にとっては暦としての役割もあったようです。

日本古来の桜と、人気逆転

そんな梅と桜ですが、遣唐使の廃止をきっかけに人気が逆転しました。理由は、日本古来の文化が注目されるようになったためと考えられています。平安時代初期に編さんされた『古今和歌集』では、桜を詠む歌の方が多くなっています。
とはいえ、その後も梅の花は愛され続けています。桜は春の象徴ですが、梅は別名「春告草(はるつげぐさ)」。春を告げる花であることは譲りません。また、梅の花の"香り"は、桜にはない魅力です。是非、梅の花の馥郁(ふくいく)たる香りに、春の訪れを感じてください。

  • 連載「住まいとお金」ファイナンシャルプランナー 久谷真理子
  • わが家の建てどきガイド
  • 資金計画タイプ別診断 あなたの資金の傾向をタイプ別で診断!

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